儀礼仮装

2013年から「ヒガシカラ」という映像記録プロジェクトを続けている。(https://higashikara.jp/)
日本各地の伝統的な文化や祭りを記録する活動。
はじめは「ただ面白そうだな」という直感だったが、
12年ほど続けるうちに、なぜ自分がこれに惹かれているのかを改めて考えるようになった。
もちろん、理由はいくつもあるが、その中でも特に興味があるのは「儀礼仮装」かもしれない
ただの仮装じゃなく祭りや儀式の中で着る衣装、演じる役、それがなぜこんなにも自分を惹きつけるのか
──そのことをChatGPTと壁打ちしながら考えてみた。

・神聖性への接続

GPTさん : 儀礼仮装は古代から「神と交信する」ための装置でした。
→ 衣装を通じて、人間以上の存在(神・祖先・精霊)と一体化する感覚が得られる。

これは大いに共感。僕が興味を持つのは「仮装」そのものじゃなくて、
やっぱり「儀礼」とセットになったときの強さだなと思った。
単なるパフォーマンスではなく、何か大きなものに触れる感覚。たぶん、そこに惹かれていると思う。

・文化的ルーツとの接触

これは大いにある。民族に触れることはエキゾチックで大好き

・自我からの解放

GPTさん : 仮面や衣装をまとった瞬間、自分自身であることから一時的に「離れられる」感覚が生まれます。
→ 日常の(名前・性別・立場)から解放され、匿名性と変身の快感を味わえる。

・自己の裏面を演じる自由

GPTさん : 普段は抑圧している感情や性質(怒り・エロス・暴力性など)を、儀礼の中では安全に解放できる。
例:カーニバル、節分、ハロウィンなど、「許された逸脱」の装置。変身の快感を味わえる。

なるほど、これは理解できる反面、そうではない部分もあるなと思った。
仮面をかぶったとき、その人に“何かが乗り移る”ように見えることもあるが、
むしろ逆に、その仮面の下に“本当のその人”が現れることもある。
これを考えていて思い出した映画が「フランク」
これは最高の映画でした。


巨大な紙粘土のマスクをかぶり、常に素顔を隠している音楽家・フランクと、彼を追う若いミュージシャンの物語。
最初は「変な人」として描かれていたフランクだが、物語が進むにつれて、
その仮面が彼を守る装置であると同時に、彼自身の表現そのものであることがわかってくる。
ラストシーンでは、主人公がようやくフランクのことを「理解」する。
そこにあるのは、仮面を脱いで“素”に戻る話ではない。
仮面を通じてしか辿り着けない「本当の自分」もある、という話。

ちょっと最後は儀礼の部分から脱線した感もありますがw (フランクの話がしたくなっただけw)
単なる「奇抜な衣装」ではなく、そこに宿る精神性や歴史、そして人間の深層に触れる部分。
仮装だけなら、ハロウィンでも金ちゃんでもやっているが。でも、儀礼が加わることで、衣装が「ただの布」ではなくなる。
何かをつなぎ、何かを解き放つ。そんな装置になる。
この点が魅了されるポイントでした。

「自分じゃないから、本当の自分でいれる。」
2chの匿名性で現れる人間性も、その人の本当の自分?

↑パリ行った時に紹介されたケブランリー美術館 凄まじいコレクション。
めちゃくちゃおすすめ
個人的には上段真ん中の素朴で不自然な面が効き目すごそうで好き

↑今年10月に行きたいと思っているインドのダシェラ祭り
笑っちゃうくらい凄そうなお祭り。

↑トランジット雑誌で見たハンガリーのブショーヤーラーシュ
痺れる!素晴らしい◎

  • 0
  • 0
  • 0
  • 0

Published by

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です